2010年07月20日

表現の自由について

日本のメディアは表現の自由守れるか(1/3):オピニオン:青山学院スタイル2010 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/adv/agu2010/opinion/vol1/


この方の主張を自分勝手に解釈すると、

メディアの表現の自由には、成熟した「個」としての民衆が必要である
表現の自由は脆(もろ)いものである

ということでしょうか。


我々教員は、日々クリエイティブなことに挑戦していると自負しています。新しい学説やネタを常に仕入れて、それを生徒に還元しよう、新たなメソッドを追求していこうという姿勢が欠かせません。これは公立であれば教員は公務員な訳ですが、通常の公務員の世界から見ると異質でしょう。

ブログという表現はこのクリエイティブな側面を世に問うことでみずからを磨いていくことだと思っています。単なる自己満足ではないのです。一人一人が新たな「道」を開拓し、それを参考にして他の方が続くための、現代らしい手段と言えます。特に「情報科」という教科の性格上、情報機器やインターネットと親和性が高く、また学説やメソッドが確立した教科とは言えない中でのパイオニアとしての性質が、意識のあるメンバーにとってはまたとない発表の機会であると言えます。

しかし、一方で公立学校に所属するからには、所属する組織、都道府県や市区町村を背負っている立場であることも事実です。

とある、かなり活発に情報発信をしていた情報科の方が、最近ひっそりとブログを閉じました。それはかなり的外れな苦情、というか「いちゃもん」を親組織に投げ続けられた結果です。クレーマーと言っても良いでしょう。

残念ながら、そこの組織は、彼を守る方向には行きませんでした。事勿れの官僚的な対応により、閉じることになりました。もちろんクレーマーによる彼の精神的打撃も無視できない影響がありましたが。

「間違いがあってはいけない」という無謬主義がはびこると、個人の活動を極端に制限する方向に進みます。しかし、まったく間違えを起こす可能性のないクリエイティブな活動などあり得ません。もちろん気をつけなければいけませんが、クレームを付けたがる人というのは世の中に一定数いるわけで、それは毅然として「間違っていません」と言えばいい話です。それを言われるのが嫌だからという理由で表現を制限する、それは憲法に保障された基本的人権を制限していることになぜ気がつかないのでしょうか。

表現の自由は、信教の自由と並んで、ともすれば簡単に侵されてしまう心の自由です。だから「憲法」に書いているのです。それを可能な限り保障するのが「大人の社会」と言えるのではないでしょうか。そこに「もしかしたら危ないから」という予防で制限を掛けるのは、幼稚園児に「そっちへ行ったら危ないよ」と言って縄を張るのに等しいと言えます。

そして、憲法で保障された自由よりも組織を守ることを優先させるとすれば、それは江戸時代の徳川幕府の「農民は生かさぬよう殺さぬよう」「知らしむべからず依らしむべし」等と同様の守りの姿勢であると言えましょう。

私もかなり気をつけて記事を書いています。特に生徒の個人情報に関わるような事の無いように(この「個人情報」についてもかなり拡大解釈されていますね)。

しかしクレームを付ける人はどんなものにも付けるものです。その時、組織は守りに入るのか、正すべき事は正して闘うのか。それがその組織の正当性を公に問いながら発展していくための鍵と言えるでしょう。
posted by n_shimizu at 02:29 | TrackBack(0) | 日記

2010年07月19日

追悼・梅棹忠夫先生

文化人類学者、生態学者、民族学者、日本語のローマ字論者(ローマ字化推進論者)で、社団法人日本ローマ字会会長、エスペラント運動家(エスペランティスト)、世界エスペラント協会の名誉委員……などなど、肩書きはたくさんある。

わたし的には「知的生産の技術」の著者、これに尽きる。というか、それ以外の活動についてあまり知らない。この本自体、ローマ字化推進の萌芽が見て取れる内容だが、それについては機会があったらいずれまた。


1969年、すなわち、私が生まれた年に発刊されたこの「知的生産の技術」。高校1年生の時に(たしか)現代社会の授業で推薦されて読んだ。

その時の衝撃と言ったら、自分の人生の中でのターニングポイントであったといえるぐらいの出来事だった。

現代風に言えば(情報科の立場から言えば)、


  • 記録とはデータである

  • それは規格化をして(フォーマットを整え)

  • 正規化(的な)ことをして初めて意味がある



ということを、生まれて初めて教えてくれたものだった。

私が、電子工作をしたり、プログラミングを始めたのは小学生の頃。まぁその分野としては少し早熟気味だったかもしれない。しかし、この時は、ただ単に「コンピュータ」を学んだに過ぎない。

しかし、この本を読み、「情報」の取り扱い方を学んだ。ノート一つ取る際にも、未来の自分という他人に向かってのメッセージとして、記録しなければならないことを知った。

時は過ぎ、高校教師になった。理科の教員として。相変わらずパソコンをいじるのは好きだった。そんな中で、新しく「情報」という教科が生まれることを知り、自分が本当にやりたいことは「理科」ではなく「情報」だったのではないかと気づき、喜び勇んで免許取得の講習会を受けた。

講習会は多岐にわたった。それは専門教科「情報」の免許も一緒に取ることになったから。それはまだいい。「情報」が余りに「コンピュータ」に偏っている気がした。

質問をした。

「情報科」とは「情報」なんですか、「コンピュータ」なんですか。


答えは曖昧だったが、「どちらかというとコンピュータ」というイメージを受けた。

講習を受けた帰り道、お茶の水で買った書物が、脳内ネットワークを論じたものと、当時そろそろ実用的に使われ始めた Web の HTML の元になっている SGML の解説書(おそらく大学の教科書)だった。しかし、どちらも難しくて読了できなかった。

今思うと、認知心理学などを学びたかったのだろう。コンピュータに入る前に、人間の頭の中でどう認識されているのかを知る必要がある、そして、Webを始めとする人間の知の繋がりの仕組みや理論を知りたい、そういう思いだった。当時はそういった学問の存在がわからなかった。

情報科の教員として生徒に教え始めた。あまりに幅のある生徒にたじろいだこと、TTで一緒に組む先生の認識に合わせる必要があったことから、「情報」の授業は「パソコン教室」になった。違う違うと思いながら。

情報科の教員になって5年目の時。学校も移り、TTをする相手も変わり、その相手から、「知的生産の技術」の話になった。この本に「情報科」が出来ることが予言されているよ、と。

驚いた。本当に驚いた。慌てて本書をめくると後書きに次のようにある。

『ここにあげたさまざまな知的生産技術の教育は、おこなわれるとしたら、どういう教科でおこなわれるのであろうか。国語科の範囲ではあるまい。社会科でもなく、もちろん家庭科でもない。わたしは、やがては「情報科」というような科目をつくって、総合的・集中的な教育をほどこすようになるのでないかとかんがえている。』

なんと、意識していなかった、自分のアイデンティティがここにあったのだ。

そう、パソコンのことを教えたかったのではなく、「人間の中身」を教えたかった。自分は何を見て・聞いて、それをどう感じるのか。それをどう咀嚼するのか。そしてそれをどう他人に伝えるのか。つまり、情報の収集・編集・加工・発信という、まさに情報活用能力+認知心理学、それがあってはじめて、コンピュータなどのを使う上での「情報学」が生きてくる。それを教えたかったのだ。

子供の頃のコンピュータ好き、高校生の頃に本書から受けた衝撃、それが熟して「情報科教員」という今に至っていたのだ。

この「知的生産の技術」は、私にとって今の自分がある特別な一書なのである。

先日お亡くなりになった著者の梅棹忠夫先生には謹んで哀悼の意を表したい。そして、尽くせぬ感謝を送りたい。
posted by n_shimizu at 02:42| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2010年07月18日

都高情研本年度第1回の研究協議会に参加

こちらの研修会・研究協議会ですね。こちらに参加しました。

場所はK高校。初めて行くところです。調べてみると本校からほぼ真北にバス一本で行けるのですね。ということで、短縮授業を終え、他の仕事も終えた後で出発しても間に合いました。

北の門から入ると、
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林!
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ええっ?!学校内に林があるなんて!

すぐにひらけて普通に校舎が見えました。
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傾斜を利用しているので入り口の校舎と奥の校舎は2Fと1Fが横に繋がっている構造になっていまして、校内で迷いました。

とても広い、のどかな学校です。

さて会場についてはそれぐらいにして内容はというと。

講師は私立高校で情報を教えているI氏。とてもまじめに勉強されています。都高情研の研究大会でも発表され(自分は自分の発表があり聞けなかった)、とても評判が良く。ぜひとも聞いてみたかった。

濃い。とても濃い。テーマは「普通教科「情報」における著作権に関する授業実践」なんですが。5時間かけて行われているとのこと。すごい。

なかでも、「著作権は人工的な権利である」こと。「現実に合わせて後追いで法律が整備されていること」などは自分の中ですとんと落ちました。自然法とはずいぶん違うわけでして、「だから法律そのものから学ぶ」というのはその通りですね。映画だけは特別扱いされているという疑問は感じていたのですが、「映画は莫大な投資をされているので、製作会社が著作権をもっているのが、投資に対する利益の回収をしやすいから」という、これも現実に合わせた権利であることですとんと。

著作者の権利を守る著作権がある。そしてそれを侵害していることがある。でも「侵害=悪」かというと必ずしもそうではなく、むしろ「タダで宣伝してもらった」という利益にもなる。そこに「親告罪」であることが生きてくる。なるほど。

多くの生の事例を出して、生徒にぶつける内容はすごいとしか言いようがない。

著作権は、グレーの部分が多く、事例をたくさん勉強しないとおいそれと語ることが躊躇される。それはやはり「人工的な権利」であり、もっというと「大人の事情」によって、それが「悪」になったり「善」になったりする部分。

でもそれは、情報科らしい、「トレードオフ」の関係なんだよ、考えなければならないんだよ、という結論に持って行く。

情報社会を語るとき、情報が価値を持っている社会であると、またその「価値」とは基本的に「お金」であると、よく言う。そういう観点から考えると、著作権は情報社会を経済的に成り立たせる法的基盤と言える。今考えるととても当たり前なことに気づかなかった自分が恥ずかしい。

年間の授業の中でこれだけ厚みのある内容を取り入れられるのかは、それぞれの事情によるだろう。教科「情報」で扱う内容は、どれをとってもゆうに4,5時間もってしまうテーマばかり。それのどこを膨らませるかは担当者に任されているといえる。ただ、1学期で1時間で終わらせた内容だったが、もう一度きちんと取り上げた方がいいと思った。

パクらせてもらうだけでなく、自分も参考文献に上げて頂いた(わざわざキャリーバッグにたくさん入れてもってきて頂いた)ものを勉強して、生徒にぶつけていきたい。

刺激をいただいた研修だった。
posted by n_shimizu at 03:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記